もし願いがひとつかなうなら

世界中の人を数えたら一体何人の人がいるのだろう?
80億かそれくらいと聞く、しかし実際正確な数字をわかる人間はいないだろう。


そして一人の人が一生の内に何人の人と出会うのだろうか・
そんな事誰も知る由もない。


果たして今まで俺は何人の人に出会ってきたのだろうか
そんなこと俺も知る由もない。


どこへ行っても必ず聞かれる事がある、どこ出身?


小学校の頃、主に出会う人は近所、同じ学校の区域にいる人達だ。
小学校の頃、出身とは同じ学校敷地内の分けられた区域を意味する。


中学に入ると、枠が大きくなる。
出身とは卒業した小学校であり、市内一部区域を意味する。


高校に入ると、さらに枠が大きくなる。
出身は市内全体から市外まで拡大する。


大学に入ると、一気に枠が広がる。
出身とは県を意味し、極端な話、規模は日本全体に広がる。


そして留学すると、枠はなくなる。
出身とはその人の生まれた国を意味する。


その先々で出会う人達にとって、自分はその出身地の人のイメージになる。
自分がジョージアで出会った人にとって、日本人のイメージは即ち俺にあたる。


そんな滅相もないって話だが、
実際何ヶ月かしたら、何人かの人にとってそうなるかもしれない。


誰もが必ず一つや二つ固定概念を持っているであろう。
そしてそのイメージにピッタリ当てはまる人に出会ったら、あぁヤッパリと思って終わる。


しかしイメージと違う人に出会ったとき、人は衝撃を覚える。
そしてその衝撃はいつかその人の固定概念をも変える可能性まで秘めている。


人はそれぞれ一人一人の個があり、人の数だけ考え方、価値観が存在する。
目に見える人をも正確に数える事ができないのだから、
目に見えない、価値観や考え方なんて物は数える事は不可能だ。
まして一人一つとは限らない。


ただ近い考え、価値観を共有すると言う事はどこにでも存在し、当たり前である。
そして、それが文化や文明を生み出す。
その一方でマジョリティーとマイノリティーが生まれ対立が始まる。


共有できなくても相手の考えを理解する事は大事な事、
仮に理解できなくても理解しようとする、その姿勢こそが一番大事である。


価値観や考え方は違いが多ければ多いほど面白い。
その一方で違いが多ければ多いほど、衝突が増える。
出身の規模が大きければ大きいほど、違いも大きい。
そして理解し難くなる。


ただそれでも理解しようとする事を心がける事が大事だ。
だからつまらない時でも授業の話は一生懸命聞くもんだ。


何が言いたいのかハッキリ自分でもよくわからん。
ただふと思ったから書いてみた。